パパはギャンブル依存症

依存症者を抱える家族の話

ギャンブル依存症者の家族の脳内も中々のギャンブラー

自分自身の底つき感情から数週間経過して、昨夜ふと思ったことがある。

 

『第2回 統合型リゾート(IR)セミナー』に参加して、ギャンブル依存症の脳内のメカニズムのお話の中で、ドーパミンが過剰に働いている状態という説明があり、刺激に慣れすぎて、刺激への耐性が出来てしまい、やってない時もイライラが止められなくなってしまうと聞いた。

 

ここ7ヶ月で知識として認識はしていたつもりなのに、ギャンブルをやらない私はどうもこの一連の現象とギャンブルを結びつける想像力が足りなかった。

 

でも昨夜ふと。。

 

『あれ?これって自分もじゃない??』

 

と思う瞬間があった。

 

パパとの不可解でスリリングで刺激的な生活に慣れすぎて、すっかり刺激的な生活への耐性が出来てしまい、現状の穏やかな日常が受け入れられず勝手に底をついて苦しんでたのかもと思った。

 

そんな刺激求めてないのに、それがないと意思とは別に不安になってしまう。

 

『止めたくても止められない』

ギャンブル依存症と脳内の仕組みが一緒で、これも共依存の1つなのかな?と感じた。

 

共依存症も依存症の1つなのに、アルコールや薬物、ギャンブルなどわかりやすい象徴がないからか、自分としても今ひとつ理解が出来ていないところがある。

 

対象は違えど立派な依存状態だーと、少し笑えてきた。

 

私は共依存症から『回復』したい!と、もがいているのに、どっぷり共依存の真っ最中だった。

 

止めようと思って止められるものではないことは、ギャンブル依存症を通じて学んだので、自分自身の共依存症を否認せず「まずは認める」ことを始めようと思った。

 

共依存症に対して無力であることを認める』

 

書いてみたもののイマイチ腑に落ちない自分がいる。

 

自分以外の人に対しては正直でいられるのに、自分自身には全然正直でいられない。

 

自分の感情、自分の行動、自分の発言。。

 

軸を自分に持ってこれないのも、共依存症のなせる技なのかなぁ。

 

自分以外の人のことを考えたり、行動したり、口を挟んだりしてる時の方が、自分にとってごく自然なこと。

 

初めて出会った精神科医

 

『あなた自分のために生きたことないでしょ!』

 

と、言っていた言葉が身に染みる。

 

そして先日、長男の頃からのお付き合いのママ友さん達が

 

マ「子育てが少し落ち着いたから、これからは自分の時間を満喫したい」

 

という内容の話で盛り上がっていた時に、私1人だけそういう思いがなくて、

 

マ「一生、子育てだけで終わってもいいの!?」

 

と、驚かれた。

そして驚かれたことで自分に自由な時間を満喫したいという発想がないことに逆にびっくりした。

 

私「全然いい!」

 

と当たり前のように本気で思ってるから。

 

それにパパとの家族計画の話し合いの中でも、産める限り沢山子供を産みたいと願っている私が7人目はどうする?みたいな会話をしていた時、

 

パ「そろそろ2人の時間も欲しいからいいかな」

 

と言っていたことに驚いた。

パパに驚いたと言うよりは、私の中に

 

『子供達抜きのパパとの2人の時間』

 

という項目が存在していないことに気がついてまたビックリ。

 

結婚以来、色々な事があったけれど、本気で嫌いになることはなく今まで一緒に居たし、金銭的な大切な話は出来ないけれど、日常のくだらない話で盛り上がったり、夫婦にしか通じない感覚があったり、2人で居ることも全然苦じゃないのに、

 

『子供達抜きのパパとの2人の時間』

 

という項目がスッポリ抜けていた。

 

本を読んだり、のんびりしたりすることが、自分のやりたい1番なことのせいか、パパといても子供達といてもそれをすることが出来るから、あえて「自分の時間を満喫したい」と思わないのかも知れないが、こういうところが自分軸で生きていない共依存症の特徴なのかなぁとも感じる。

 

パパのギャンブル依存症という病気のことへの理解と同じくらいの熱量を持って、自分自身の共依存症という病気への理解も深めていきたいなと思ってはいる。

 

と言いつつ、頭の中ではパパのギャンブル依存症という病気のことを優先にしてしまうんだろうなぁ。と覚悟もしている。