信じたいのに信じられない苦しさ
前回の『自分自身の底つき』で触れた話で、
「強迫的ギャンブラーが自分から自助グループ通いの回数を増やした!」
ことは、側から見てとても良いことだと言われる。
そう、多分とても良いことなんだと思う。
けれど、ギャンブラーによる尋常じゃない数の
「度重なる嘘と偽り」
を経験し、信じても信じても巧妙に騙され続けてきた、強迫的ギャンブラーを抱える家族にとっては、正直何をどう信じることが正解なのかは全くわからなくない。
「信じてあげなきゃ可哀想!」
なんて問題ではなく、強迫的ギャンブラーは普通の人が普通に会話するようなテンションで嘘をつく。
「嘘と偽り」
と
「金銭問題」
は、ギャンブル依存症者の共通の特徴。
本当に信じられないくらいに自然に嘘を織り交ぜて、そこに微妙に真実も絡めて話すプロである。
「見抜けない家族も馬鹿じゃない?」
と思われそうなものだが、ギャンブル依存症の病気と知らない状態で、嘘を見抜くことはまず不可能。
ギャンブル依存症という病気の特徴を知って、会話の端々に気を配りながら聞いて、ようやく少し見抜けるレベル。
もしくは明らかにバレバレの場合もあるが、それでも絶対に嘘をついたとは認めないのがギャンブル依存症者なので、余りの「堂々たるエセ正論」に、こっちが『あれ?本当に違うのかな?』と思わせられる力がある。
我が家もパパがギャンブル依存症とわかって、ギャンブルや借金自体は止まっていて、自助グループへ参加していても、下らないこと1つでもパパの「嘘と偽り」が止まることはない。
今までと違って、私も疑うことを覚えたし、バレバレの場合は「堂々たるエセ正論」にも騙されない心の強さは身につけては来たけれど、正直なところ、とーっても疲れる。
ギャンブラーが夫であれ、息子であれ、信じたいのに信じられない苦しさは、ギャンブル依存症者を抱える家族にとっては共通の苦しみだと思う。
愛してるから信頼したいと願うのは当然のことだと思う。
むしろ相手がギャンブル依存症者でなければ、そんなこと願わなくても自然と備わっているものなのでは?と思ってしまう。
少なからずパパではない人との恋愛関係や結婚生活の中での『信頼』は、あえて意識することもないくらい当たり前のことだった。
ギャンブル依存症という病気を知る過程で、
『愛していても信頼はしない』
『ギャンブラーとの間では愛情と信頼は別物』
という定義を知り、目からウロコというか、今までの自分の人生には全くない価値観で、更にめちゃくちゃ的を得ていることに驚いた。
『愛と信頼』
は、私の中で常にセットだったからこそ、パパが嘘をつき、借金をしたり、子供たちに使う大切なお金をギャンブルにつぎ込んだりして心無い行動をしてるのにも関わらず、私と子供達のことは大切だし愛してると、繰り返し言っていたことがどうしても理解出来なかった。
「家族を愛してる人がすることじゃないよね?」
このセリフを何度言ったことか。
わざわざ愛してる人達を傷つけて、信頼を無くすことばかりしてるのは誰がみても明らかなのに、本人は真顔で「家族を愛してる」と言う。
ほんとこれが嘘のような本当の話で、ギャンブル依存症者を抱える家族の中では、話題になるたびに理解不能なので「強迫的ギャンブラーの七不思議」的な位置付けになっている。
それに加えて、家族側も「愛情」は持ち続けても(特に金銭的な問題に関して)「信頼」してはならない。
『ギャンブル依存症者との人生において「愛と信頼」をセットにしてはならない』
なんとなく切ないけれど、それもギャンブル依存症という病気を理解する上で大切なこと。
愛する人を信じたいのに信じられないことを、いつの日か苦しいと思わずに受け入れられる日が来るのか、それともギャンブラーが『回復』して「愛と信頼」がセットになる日が来るのか。。
やっぱり私は後者がいいなぁと願ってしまう。
普通の人は気にも留めないような、当たり前の「愛と信頼」のある夫婦として生きていきたいな。